「籔内佐斗司」カテゴリーアーカイブ

豊の国

本日も籔内佐斗司氏のSNSより・・・・・ご案内です。

 

 

 

 

 

3月はじめに、大分県立美術館(OPAM)主催の講演と親子工作教室に出講してきました。
今回は、「手」をテーマにした連続企画でしたので、私の講演題名も『美術に顕れた手の表現とその意味〜仏像は手でしゃべる〜』、また工作教室は『うごく手を作る』としました。
参加者のみなさんには、大いに喜んで頂きましたが、このことについてはまた稿を改めるとして、今回は、私の大好きな「豊の国」についてのお話しです。
豊の国
奈良県立美術館館長・籔内佐斗司
〈豊の国とは〉
律令制下に西海道という行政単位であった九州は、筑前・筑後・豊前・豊後・日向・肥前・肥後・大隅・薩摩の九つの国から構成されていたことがその名の由来。現在の福岡県東部から大分県一帯を指す「豊の国」は、古来より朝鮮半島から瀬戸内海を通って大和国へ文物を送り出す中継基地として栄え、7世紀頃に豊前国と豊後国に分割されました。
大分という不思議な県名の由来は、『豊後風土記 景行天皇の条』に記された「硯田国(おおきたのくに)」です。
山がちの狭量な地に、たくさんの田畑を立体的に造成している様を、「多くの田畑に分けた土地」であると帝が感嘆されたとのこと。
棚田を硯に見立てるとは、なかなか出色の譬えで、今も大分市内には硯田町(けんでんちょう)という地名も残っています。
古代から、山海の恵みのほか、海外からの珍宝ももたらされ、まさに「豊」の国に相応しい地域だったのでしょう。
 筑紫国(今の福岡県中西部)には、朝鮮半島との外交と国防を司る「太宰府政庁」がありましたが、豊の国は西国の守護神「八幡総本宮宇佐神宮」が鎮座しています。
「宇佐八幡」は、天平時代の弓削道鏡に関わる神託事件が有名ですが、「歴史は勝者が記述する」の譬え通り、事件の真相は闇の中です。戦前には、天皇制に害を為した日本史上三大悪人として、平将門、弓削道鏡、足利尊氏が著名でしたが、現代では、彼らの評価は大きく変化しており、道鏡禅師の事跡も見直されつつあります。
そもそも、皇位継承について、天皇直系の伊勢神宮ではなく、平城京から遠く離れた宇佐八幡の御託宣がなぜ必要だったのか?
そして、わが国の神社界で最多の数を誇りながら、その由来がはっきりしない八幡神について興味はつきません。
わが国の古代からの美称である豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)や豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)、また伊勢神宮の外宮の神である豊受大神(とようけのおおかみ)などからも解るように、「豊(現世の繁栄)」がこの国の神祇信仰にとってきわめて大切な概念でした。
羽柴秀吉は、織田信長に倣って平秀吉を名乗っていましたが、関白に任官したときに近衛前久と縁組みをして藤原姓を名乗りました。
しかし、天正14年に「源平藤橘」に次ぐ、天皇家を永遠に補弼(ほひつ)する第五の家系として豊臣を創氏したことも、「豊」の威光にすがったものと考えられます。
〈信仰の国・豊後〉
国東半島にある「臼杵(うすき)」の「うす」は、縄文時代のことばで火山を意味し、肥後の阿蘇山や北海道の有珠山なども同じ語源といわれ、半島中心部にある両子山(ふたごさん)を指し、その山容は奈良と大阪の境にある二上山(にじょうざん)によく似ています。
伝説によれば、8世紀に宇佐八幡宮の八幡信仰に基づく神仏習合の修験道場・六郷満山が仁聞菩薩によって開かれ、寺社のほか、石仏や磨崖仏などもたくさん遺されています。
そして戦国時代に豊後国を治めた第21代当主大友義鎮(宗麟)は、九州6ヶ国の守護及び九州探題に任じられ、九州の大半を支配しました。
そして、明やポルトガルなどと盛んに交易を行い、南蛮文化が花開きました。貿易を積極的に展開するためにキリスト教を積極的に保護し、フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)の布教によって豊後国の信者は3万人を超えたといわれ、宗麟自身も晩年に洗礼を受けています。
なお、フランドルの画家・アンソニー・ヴァン・ダイクが、『豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル』に描き遺した宗麟は、ヨーロッパで初めて描かれた日本人でありました。
もっとも、ヴァン・ダイクは、二人が亡くなってからの17世紀に完全に空想でこの絵を描いているのですが・・。
大友氏は1586年(天正14年)の島津氏に攻められて、1593年(文禄2年)に第22代当主の大友義統が改易されて衰微し、その後、豊後国では過酷なキリシタンの弾圧があったことは、長崎ほど知られていません。
今ではいささか地味な印象の大分県ですが、湯量日本一を誇る温泉県として別府、由布院など名だたるリゾートがあります。
緑豊かな自然はもとより、温暖な気候に加え、歴史も文化も山海の美味も満喫できる豊の国は、まだまだ探訪の余地がありそうです。
図版;アンソニー・ヴァン・ダイク『豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル』(ドイツ・ヴァイセンシュタイン城 シェーンボルン伯爵コレクション 17世紀)
籔内佐斗司作『ぶんぶん童子』(JR九州大分駅蔵)
*内容は籔内佐斗司氏のSNSよりお借りしました。

 


 

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古都を旅する 京都・奈良

本日は籔内佐斗司氏よりご案内です。

是非、ご覧ください。

 

 

『週刊新潮』の巻末グラビアの長寿企画『古都を旅する 京都・奈良』で、「とっておき私の奈良 籔内佐斗司」が始まりました。

あまり一般的ではない奈良の魅力を4回に亘ってご紹介します、第一回は奈良県立美術館。お見苦しい面体、笑ってお許し頂ければ幸いです。

 


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和の知恵

本日は籔内佐斗司氏のSNSより・・・・・・・・・・

 

 

 

 

和の知恵
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司
 東京藝大に勤務していたとき、中国からの留学生に質問したことがあります。 「日本語を勉強していて、なにがいちばん難しい?」。
すると彼の答えは、「カタカナ語!」という意外なものでした。
 その理由は、まず「ハ行に点々を付けたら、なぜバ行になるのかがわからない。」とのこと。たしかに発音するときの口唇や舌の動きを考えたら、マ行に濁点を付けてb行にし、ナ行に濁点を付けてd行にした方が理に適っているかもしれません。
 そして彼がいうには、「ザ行では、zかthのどれを表現しているかがわからない。
ラ行が、rかlかの区別もつけられない。促音である小さな『ッ』の付き方や、長音記号の『ー』が難しい」等々。
改めて指摘されると、もっともだと思うことばかり。
そもそも促音を表す小さな「ッ・っ」が学校教育で公式に統一されたのは、現代仮名遣いが交付された1946年以降という新しいもので、むかし私の母からもらった手紙には、旧仮名遣いとともに、大きな「つ」が使われていたのを思い出します。
そして極めつけは、「カタカナ語を声に出しても、元になった外来語がわからない」との意見。
たとえば、小学生でも知っている「リズム」という言葉の英語表記は、ふだんから英語に親しんでいる人か、音楽関係者でなければ「rhythm」とすぐには思い出さないでしょう。
また、「エステティック」から「Esthetic」の綴りを連想するのも至難のことです。
中国語で「MacDonald’s」を「麦当労」と表記しますが、発音は英語に大変近くなるのとは対照的です。
 このように、たいへん曖昧なカタカナ表記ですが、海外からのあたらしい概念が洪水のように流入している昨今では、私たちのまわりは意味不明のカタカナ語の大氾濫です。
大学の会議に出席していた頃、会議資料に「アカデミックカレンダー」と書いてあってびっくりしました。
なぜ「学事歴」という立派な日本語があるのに、わざわざ言い換える必要があるのかなと不思議でなりませんでした。
また議題に「テニュアトラック」という言葉が出てきたときには「なんじゃこりゃ?」と思いました。
「博士号を取得していながら非常勤職員をしている若手研究者に対する公正な終身雇用(tenure)の仕組み」だそうです。
また学生や若手研究者の起業支援をインキュベーションと言います。これは卵を孵化させるという意味の「incubate」という英語からきたことばだそうですが、原語を知らないとなかなか連想できないことばです。
そのほかにも、アジェンダ、アセスメント、パラダイムシフト、プロコトル、スキーム、ノンバイナリーなどなど、いったいどこの国の会議だろうと呆れてしまいました。
 誤解しないでいただきたいのですが、私は外来語や外国文化を拒否しようなどと言っているのではありません。
この20年ほど、わが国は、政治・経済・先端技術・産業などのあらゆる面で革新が後手に回り、外来語や新しい概念を取り入れないと、何も語れないのは悲しい事実です。
でも、それならせめて英語くらいは、カタカナ語ではなく原語表記をしようと提案しているのです。
そして、じっくりと原語の概念を咀嚼して、新しく美しい日本語を生み出す努力をすべきだと思います。
極東の列島国であったわが国は、二千年以上、外来の文化や言語と格闘しつつ、大変な努力をして自家薬籠中のものにし、自らの文化へと消化してきたのですから。
その結果、欧米圏以外で自国の言語だけで高等教育が行える希有な国でもあったのですが、昨今のGlobalの時代に、先人のそうした努力をガラパゴス化と否定的に考える人が多いのは残念なことです。
『万葉集』では、額田王の歌を、漢字を用いて以下のように表記しました。
「茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流」
そして、それをやまと言葉で「茜さす紫野(むらさきの)行(ゆ)き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君の袖振る」とみごとに読み下しました。そのお陰で、現代の私たちは、飛鳥時代のひとびとの恋ごころを、漢文ではなく当時の生きた言葉を通じて、わがことのように知ることができるのです。
 もうひとつの日本語の特性として、ひとつの漢字に、複数の読み方をすることがあげられます。
たとえば「西」という漢字には「にし」という訓読みのほかに、「さい」と「せい」という二種類の音読みがあります。
「さい」は、中国の揚子江の南の「呉」の地方の発音が飛鳥時代から奈良時代にかけて仏教と一緒にもたらされて定着した呉音(ごおん)です。
したがって、関西、西大寺、西塔、西国、西行法師、西方浄土のように、南都の仏教に関するものの多くが「さい」と発音します。
 一方、「せい」は、平安時代になって空海などの遣唐使がもたらした思想や政治経済分野の言葉を中心に、黄河流域の長安付近の発音「漢音」がもとになりました。
たとえば、洛西、東夷西戎、西夏、浄土宗西山派、西洋、西岸、西軍、西高東低など。
 関西の法律学校として出発した関西大学は、「かんさいだいがく」。
一方、キリスト教系の「関西学院大学」「西南学院大学」が、仏教臭を嫌って「せい」と発音させたのは、日本文化の多重性を考える好例です。
 明治維新以来、欧米の言語と学問を導入する際、政治・経済や学問、藝術などの各分野の夥しい数の絶妙な和製漢語を生み出しました。
そして、それらは日本で学んだ留学生を通じて東アジア全域に普及しました。現代の中国や台湾、韓国で、日本発のこの和製漢語を用いなければ、日常会話も学問も成り立たないと聞きます。
カタカナ語大好きの小池都知事ですが、コロナ騒動の折にも、聞きかじりの怪しげなカタカナ語を連発して、大いに混乱を助長しましたが、彼女には先人の爪の垢でも差し上げたい気分になります。
 数万年前から日本列島には人が住んでいましたが、大陸や朝鮮半島などから人々がさまざまな文化を携えて波状的に移住してきました。
人が絶えず流入したのではなく、周辺地域で政変や戦争が起こるたびに、人々の動きがありました。
先住民は、彼らを排除するのではなく、多くの場合、好意的に受け容れ、共存を選びました。
そして、以前からある生活習慣や文化を維持しながら、新しい人たちの文化をも取り入れてきたために、複数の文化様式を多層的に形成することになりました。
これがわが国の国家理念である「和の文化」を形成し、あまり自己主張しないで周りの人に合わせるという国民性を生み出してきたのでしょう。
自分より以前からいる人に敬意を払うとともに、自分より後から来る人たちを思い遣る気持ちに代表される日本人の美意識「和」の知恵を、今こそ見直したいものです。
*内容は籔内佐斗司氏よりお借りしました。

 


 

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内山永久寺

本日は籔内佐斗司氏のSNSより・・・・・・・・

 

内山永久寺
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司
天理大学近くの天理市杣之内町一帯には、古代からの古道「山辺の道」に沿って旧石器時代から連綿と続くたくさんの遺跡がありますが、その中でも私が以前からとても気になっていた内山永久寺趾を、このたび雑誌の取材で初めて訪ねることができました。
神仏習合が盛んであった大和国において、内山永久寺は、廃仏毀釈の際に興福寺以上の壊滅的な被害を蒙ったことで知られます。
仏像を研究していると、「内山永久寺旧蔵」と記された仏像にしばしば出逢います。
そのいずれもが素晴らしい出来映えであったことから、さぞや力のあったお寺だろうとは思っていましたが、明治初めに伽藍そのものが消滅しているため、いままで訪れる機会がありませんでした。
鎌倉時代の『永久寺置文』(東京国立博物館蔵)や『菅家本 諸寺縁起集』によると、この寺は永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願によって、興福寺大乗院第二世院主の頼実によって創建されたとのこと。
その後、東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ大和国有数の大寺院に発展し、天理市布留町の石上神宮の神宮寺として絶大な勢力を誇ったといいます。
天正13(1585)年には、五十を超える塔頭を擁し、『大和名所図会』に載っている境内図によれば、池を中心とした浄土教式回遊庭園には、本堂、観音堂、八角多宝塔、大日堂、方丈、鎮守社などのほか、多くの宿坊や子院が建ち並んでいたことがわかります。その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」と呼ばれていたそうです。
しかし明治初年から、当時の寺内でもっとも力のあった藤原氏出身の僧侶・上乗院亮珍自らが積極的に神仏分離を推し進め、豪奢を極めた堂宇はことごとく破壊され、仏像や什宝は略奪の対象となって、明治9(1876)年頃にはすべての寺宝が失われてしまったのでした。
 寺外に流出した仏像・仏画・経典類はいずれも鎌倉時代の傑作揃いでした。
石上神宮摂社・出雲建雄神社割拝殿(国宝)、藤田美術館・両部大経感得図(国宝)、東博・愛染明王坐像(重文)などのように、日本各地に散逸した同寺の宝物の大半が、現在では国指定文化財となっていることからも、この寺の隆盛が伺えます。
私の東京の自宅近くにある世田谷観音寺には、運慶の孫の康円が1272年に制作し、同寺から紆余曲折を経て当地に辿り着いた「木造不動明王立像および八大童子像(重文)」が安置されており、以前からなにやらご縁を感じていたのでした。
 浄土信仰に基づく西に開けた傾斜地の旧境地内には建物はなにひとつ遺っていませんが、かつて堂宇があった場所は平坦な地勢を呈し、地面を這うように剪定された柿の木などの畑になっていました。『太平記』に記された後醍醐天皇の萱御所(かやのごしょ)の石碑の前には、かつての本堂前にあった池が残り、帝の愛馬が亡くなってワタカ(別名馬魚)という魚になったという悲しい言い伝えも、一層わびしさが募りました。
 まだ肌寒い中、山の辺の道を元気に歩いているハイキング姿の人たちを多く見かけましたが、内山永久寺に思いを馳せている人はどのくらいいたのでしょうか?
 2022年3月21日に、内山永久寺趾のすぐ近くに、なら歴史芸術文化村がオープンします。
奈良県に関わる歴史芸術や文化、及び文化財保護などを体験することができ、しかも飲食・物販に加え宿泊施設まで完備した画期的な研修施設で、県庁職員のせんとくんも、太郎冠者の装束でお迎えいたします。
ぜひこの施設を拠点にして、大和の国の栄枯盛衰や人の愚かな所行に思いを馳せる旅をお勧めいたします。
図版;『大和名所図会 巻之四 内山永久寺』、『内山永久寺記念碑』『石上神宮摂社・出雲建雄神社割拝殿(国宝)』
*内容は籔内佐斗よりお借りしました。

 

 


 

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美術品

お世話になります。

昨日、名古屋市内の方よりお問い合わせを頂きました。

おたくは鶴田一郎しか扱ってないの?

日本画で〇〇〇〇をさがしているんだけど?

という内容でした。

ホームページにも取り扱い作家の一部が明記してありますが、日本画・洋画・陶器・西洋装飾品・彫刻類等美術品全般を取り扱っております。

また芸術啓蒙の為、いろいろな場所で展示会を開催しております。

正規代理店という事もありますが、皆さんが良く知ってらっしゃる鶴田一郎先生の作品を取り扱う事が多いですが、+αでその他の作家さんの作品も発表しております。

また若いこれからの作家さんも取り扱い発表出来ればと思います。

長い間、美術品を取り扱っておりますので、気になる作家や作品がございましたら何でもお問い合わせください。

ホームページのお問い合わせ欄よりお気軽にどうぞ!

 


 

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