国際芸術祭「あいち2025」

来年のお話で恐縮ですが・・・・・・・国際芸術祭あいち2025が開催されることになりました。

概要が発表されました。

AICHIがARTで熱くなります。

 

国際芸術祭「あいち2025」企画概要

テーマ

A Time Between Ashes and Roses
灰と薔薇のあいまに

会期

2025年9月13日(土)から11月30日(日)[79日間]

主な会場

芸術監督

Hoor Al Qasimi(フール・アル・カシミ)
(シャルジャ美術財団理事長兼ディレクター、国際ビエンナーレ協会(IBA)会長)

主催

国際芸術祭「あいち」組織委員会
(会長 大林剛郎(株式会社大林組取締役会長 兼 取締役会議長)

事業展開

現代美術

  • 国内外のアーティストの作品展示などで、国際色豊かな現代美術を紹介します。
  • 愛知県美術館を含む愛知芸術文化センターや、愛知県陶磁美術館、瀬戸市のまちなかでの作品展示など、県内での広域展開を図ります。

パフォーミングアーツ

  • 国内外の先鋭的な演劇、ダンスなどの舞台芸術作品を、愛知芸術文化センターを中心に上演します。

ラーニング

  • 幅広い層を対象とした様々な「ラーニング・プログラム」を実施します。

連携事業

  • 県内の芸術大学を始め、多様な主体との連携による事業を展開します。
  • 参加アーティストによる短期間の巡回展示を県内数か所で開催します。

灰と薔薇のあいまに

枯れ木に花は咲くのか
灰と薔薇の間の時が来る
すべてが消え去り
すべてが再び始まるときに※1

モダニズムの詩人アドニスは、1967年の第3次中東戦争の後、アラブ世界を覆う灰の圧倒的な存在に疑問を投げかけ、自身を取り巻く環境破壊を嘆きました。アドニスの詩において、灰は自然分解の結果生じるものではなく、人間の活動による産物、つまり無分別な暴力、戦争、殺戮の結果なのです。環境に刻まれた痕跡を通して戦争を視覚化することで、アドニスは、直接的な因果関係や現代的な領土主義の理解ではなく、地質学的かつ永続的な時間軸を通して戦争の遺産を物語ります。したがって、アドニスにとってそれはただ暗いばかりではありません。消滅の後には開花が続くからです。

この感情は、再生と復活のためには必ず破壊と死が先行するということ、そして人類の繁栄のためには、恐怖を耐え忍びながらその道を歩まなければならないという、一般的な心理的概念を表しています。アドニスは、希望と絶望の感情と闘いながら、新たな未来、現在と過去に結びつく恐怖から解放された未来を思い描きます。戦争を国家、民族、部族、人間中心的なものよりも、集合体としての環境という視点から理解しようとすることで、アドニスは戦争の多様な顔を強調します。すなわち、人類が引き起こした戦争、地球に対する戦争、私たち自身の内なる戦争、他者との戦争、ヒエラルキー・服従・抑圧・飢饉・飢餓・搾取をめぐる象徴としての戦争、資源とエネルギーをめぐる戦争、所有権や著作権をめぐる戦争、希望・夢・想像力をかけた戦争などです。

観察者、目撃者として戦争と破壊を経験したアドニスがこの詩を書いた政治的背景は、私たちの現在の経験にも根差しており、この芸術祭ではそれをさらに拡張しています。「灰と薔薇のあいまに」というテーマにおいて、私は人間が作り出した環境の複雑に絡み合った関係を考えるために、灰か薔薇かの極端な二項対立も、両者の間の究極の境界線も選ばないことにしました。むしろ、啓蒙思想の知識文化から受け継がれた両者の境に疑問を投げかけ、人間と環境が交わる状態、条件、度合いを想定します。今回の芸術祭では、戦争と希望という両極のいずれでもなく、その間にある私たちの環境の極端な状態を受け止めながら、人間と環境の間にあると思われている双方向の道を解体する可能性を探ります。

「灰と薔薇のあいまに」において、私は、人間と自然の関係についての規範的な枠組みとは異なる問いを投げかけます。すなわち、人間が自然を変質させているのでしょうか、それとも自然が人間を変質させているのでしょうか。人間とは単なる生体物質なのでしょうか。内面的で心理的な人間と、外面的で植物的な世界との間に明確な区別はあるのでしょうか。人間と環境の現代的な関係に取り組むとき、人新世から資本新世、プランテーション新世、クトゥルー新世※2といった規範的な概念を受け入れ、批判するしか方法はないのでしょうか。芸術作品や展覧会制作は、未知の場所としての環境にアプローチし、新たな物語を発掘し、別の視点を見つけることができるのでしょうか。

第6回となる国際芸術祭「あいち2025」では、人間と環境の関係を見つめ、これまでとは別の、その土地に根差した固有の組み合わせを掘り起こしたいと考えました。農業が機械化され領土が金融化される以前には、世界の至るところで共同体が自然を管理し、環境景観との相互関係を発展させていました。そうした共同体は、自然の権利や保護を意識し、それを取り巻く動植物の生息地との間に親近感を感じて、互いに信頼し、育み、補い合う道を築いていました。この芸術祭では、そのような枠組みを現代的な芸術実践の一部として歓迎します。

このキュレトリアルなアプローチは、人間の痕跡が刻まれた複合体としての環境という現代的な想像力とは異なる、環境と共にある想像力の上に成り立っており、またそれを育むものでもあります。農業、化石燃料の採掘、深海採掘、資源の略奪、原料となる天然資源の開発といった活動が、帝国主義的な構造から受け継がれた成長中心の考え方と同様に、人間が環境に対して絶えずダメージを与えるシステムを構築し、また人間が環境に依存する危険な構造を発展させてきたことは、周知のとおりです。加えて、環境に関する私たちの知識は人間中心的であり、自分たちの利益のために環境を変質・改造することができる存在として、人間を人間以外の生命体よりも優位に置いています。

人間は、原材料を収奪できる空間へと環境を均す専門技術を持ったエンジニアであるだけでなく、人類の間に存在する不平等を再強化してもいます。今日私たちが占有している環境は、ある共同体が他の共同体よりも恩恵を受け、その生活の質が高まるように、異質化され、細分化され、分類され、モデル化されています。現在のグリーンエネルギー化の言説もまた、片方の半球にいる人々のためのものであり、他方で環境回復のために欠かせない方策の恩恵を受けることのできない共同体が、世界中至るところに存在しているように思われます。このように、今日の人間と環境にまつわる実践の多くは、人種、社会、差別についての知識や考え方を何度も繰り返しているのです。

この結果、地球上の多くの地域が、何世紀にもわたって資源を採掘してきた植民地帝国の名残を生き、多国籍の食料・エネルギー・農業企業によって身動きが取れない現状に直面しています。こうした共同体の多くは、西側世界の植民地の遺産が作り出した人間と環境の関係から不当に大きな影響を受けており、そのような現在の都市と市民の構造は、私たちが今目にしている地球規模の変化の不可避的な原因となっているのです。そうした変化は、絶え間なく続く先住民族の大量虐殺と領土の略奪、植民地化された領土での数十年にわたる核実験、そして生活環境の壊滅的な喪失と人々の屈辱をもたらした、プランテーションや鉱山での強制労働の暴力とトラウマといった遺産の上に存在しています。このことは、私たちの寿命よりも長いスパンで感じられるようなかたちでこの惑星の地質を変え、そして今もなお変え続けており、人類そのものの生存に深刻な影響を及ぼしています。

今回の芸術祭では、現在の人間と環境の関係に関する一筋縄ではいかない物語や研究を念頭に置きながらも、私たちが直面している極端な終末論も楽観論も中心としないことを目指しています。私は、環境正義※3に関する対話に複雑さを重ねることによってのみ、私たちが自らの責任に向き合い、その不正義への加担に気づくことができるのだと考えています。ヒエラルキーの押しつけや偏った読み方を避けるために、世界中からアーティストやコレクティブを招き、私たちが生きる環境について既に語られている、そしてまだ見ぬ物語を表現するのです。アドニスが想像したように、試練を乗り越えて死や破壊に耐えるからこそ自然は回復力を持つのでしょうか。それとも、生命を奪われ機械化された空疎な気候フィクション※4が表現するディストピア的で黙示録的な未来像が、今まさに私たちが生きる現実なのでしょうか。

愛知県に根差した今回の芸術祭には、灰と薔薇の間にある日本独自の環境に対する想像力も組み込まれます。愛知県は陶磁製品の産地として、瀬戸市は「せともの」の生産地として知られています。周囲の環境から得た素材や資源を用いるこれらの地場産業は、アーティストたちの新作の中にも立ち現れてくるでしょう。こうした産業は、地域の誇りの源であり、人間と環境の関係についての新たなモデルを模索する本芸術祭の支柱となります。たとえばこの地では、歴史的な写真や資料で目にする陶磁製品の生産によって作り出された灰のような黒い空は、環境の汚染や破壊よりも、むしろ繁栄を意味していました。このように普遍主義的な人新世という人間中心の批評の視点から脱却する時、技術、地域に根差した知識、帝国の歴史、環境に対する想像力について、どのような思考が浮かび上がってくるのでしょうか。地場産業や地域遺産は、人間と環境の複雑に絡み合った関係について、新たな、幅を持った思考への道を開くのでしょうか。

今回の芸術祭ではさらに、手塚治虫の『来るべき世界』を始め、日本の大衆文化、小説、映画、音楽のさまざまなシーンや事例もまた参照します。手塚の物語では、アメリカ合衆国とソビエト連邦になぞらえた国同士の緊迫した関係が原爆の開発競争──それは日本の現代化と環境の状態に深く絡んだ歴史でもあります──を招き、偶然にも「フウムーン」と呼ばれる突然変異の動物種を生み出してしまいます。フウムーンは人間を超える能力と知性を持ち、多くの動物と少数の人々を地球から避難させる作戦を考えます。自然と人間の副産物であるフウムーンが、窮地を救うためにやって来るわけです。

『来るべき世界』は、今回の芸術祭のテーマとアドニスの詩に共鳴しつつ、終末と開花の間を横断します。愛知県という地域性、アドニスや手塚といった作家への参照、そして参加アーティストたちが共に示すのは、「灰と薔薇のあいまに」を掲げるこの芸術祭が、幅を持った考え方、有限なもの、そして中間にある状態を採り入れることによって、当然視されてきた位置づけやヒエラルキーを解きほぐせるということなのです。

国際芸術祭「あいち2025」芸術監督フール・アル・カシミ